
特別講演
「私の歩んだ野球人生」−抜粋−
講師 野球解説者 衣笠祥雄

プロフィール
衣笠祥雄 きぬがさ・さちお
野球解説者 スポーツコンサルタント 元プロ野球選手
京都市出身 昭和22年生まれ
昭和40年広島東洋カープに入団、昭和45年10月19日対巨人戦以来、23年間で2215試合連続出場の世界記録を達成、多数の死球を受けながら連続出場を続け「鉄人衣笠」と呼ばれる。昭和62年引退、国民栄誉賞を受賞。県立広島大学客員教授も務める。著書に「お父さんから君たちへ」「人生、フルスイング」等。
皆さん、おはようございます。ただ今紹介がありました衣笠です。私は本当に野球ばかりやってきましたが、野球人生を終わって外から色々な場面を見聞し、青少年とスポーツとの関連で確かに実感したことがいくつかあります。一番大切なことは、子供たちが持っているエネルギーをどこに導いていったら良いのかということではないかと思います。中には自分自身を見失って、違うところへエネルギーをぶつけてしまい、自分の人生の中に大きな傷をつけてしまう子供もいるわけです。自分の場合を考えてみますと、そういう時期に私は野球というものに出会いまして、すべてを野球に吸い取られたおかげで、外に向けるエネルギーがありませんでした。その結果、私は大きなケガもせずに野球人生を全うできたのではないかと思います。子供の成長過程におけるある時期に、その子が一所懸命に打ち込めるものを周囲の大人が提供してあげること、これは大人の責任として非常に大きいものがあると思います。
−中略−
野球を始めてから一番うれしく思ったことは仲間ができたことです。個人競技では勝っても負けても一人でいろいろ考えることが多かったわけですが、野球は勝ったときに何人もがいっぺんに喜ぶという、いわば、喜びの輪の広がりみたいなもの、これが新鮮でもあり、大変うれしくもありました。あのころの野球の毎日は今でも楽しく思い出します。
−中略−
私の学生時代は野球中心の生活でしたので、家と学校との往復以外の余分な時間がほとんどありませんでした。ですから、時間の使い方がうまくない。それで、プロに入る時に遊びの誘惑には用心しようと思っていました。そういうわけで、東京がまず最初に候補から外れました。東京は歓楽街が多すぎると考えたわけです。また、父親から独立したいという欲求が強烈にあったので、大阪も対象外でした。京都〜大阪は1時間ですから、プロに入ってまた怖い父親に怒られるのは避けたいと思ったからです。それで、残ったのが広島だったというわけです。京都から特急を使って当時は5時間かかりましたから、父親も少々のことでは出て来ないだろうと考えた結果です。
−中略−
2年目のオフにスカウトの人に呼ばれ、このままでは危ないと言われました。自分でも、こんな生活
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